2014年3月10日月曜日

順番

今日はまた少し信仰のことについて・・・

私たちが考えがちな神様との関係は、大体こんな順番です:

1.「何か良いことをして神様に気に入られれば、御利益が期待できる、もしくは祟りを免れる」というロジックから、寺社を参詣してみたり、お賽銭を投げ入れてみたり、巡礼・修行の類をしてみたり、経典を読んでみたり、祈ってみたりする。つまり神様の好みそうな「良い子」になってみる、あるいは「良い行い」をしてみる。

2.キリスト教では1をして聖書を読んだり説教を聞きかじってみると、神様を愛することが大事なんだと分かってくるので、神様を愛そうと努力する。少なくとも、神様が、「あぁ、この人は私を大事にしているな」と思ってくれるようにと、敬虔なことをして(礼拝に参加するなど)神様を愛そうとする。

3.1番と2番を頑張ってしたのだから、神様の方も心がほだされて、私のために恵みをくださるだろうと期待する。

この順番で神の恵み、御利益が与えられるとどうなるでしょう。1番と2番をしたんだから、結局のところ「私ってすごい」、「恵まれて当然」、「神様ありがとう、また必要になったら頑張りますのでよろしくね」という結論になると思います。
また、与えられないとどうなるでしょう。「何だ、結局無駄じゃん」、「もういいよ、やっぱり神様なんていないよね」、もしくは、「私の努力が足りなかったんだ、次はもっと頑張ろう」となるのではないでしょうか。

ところが、聖書の教える神様と人間の関係は、実はこの全く逆なんですよ。聖書の順番はこうです:

1.神様は、ご自身のその測り知れない大きな愛の故に、罪の中におり、背中を向け続けている人間に対し、大きな恵みを一方的に与えてくださる。その顕著な例がイエス・キリストの十字架。神を神とせず、自分で善し悪しを決めて自分中心に生きている人の罪を、神ご自身が代わりに背負って、十字架刑を忍ばれた。人類は皆有罪、死刑判決が出ていたところを、イエス・キリストが代わりにその死刑を受けてくれたので、それを信じる人は無罪放免となる。神様はそのように無罪となった人をご自分の子供としてくださり、その人がご自分との親子の愛の関係の中で生き、豊かに命を保てるようにと、常に配慮してくださっている。

2.1番の神の愛を知った人、受けた人は、「そうなんだ、神様は私のことをこんなにまでも愛してくださっていたんだ、知らなかった。ごめんなさい、ありがとう、神様。」と、神様の方を向くようになる。神様に先に愛してもらったので、そして、その愛が分かったので、自分も神様を愛するようになる。

3.愛されている子供として、父なる神様の望まれるように生きたいと願うようになる。神様の子供にふさわしい歩み方は何だろう、神様は何を喜ばれるのだろう、神様のみこころは何だろう、という動機から、聖書を読むようになり、祈るようになり、礼拝に参加するようになり、etc. etc. と、神様の愛にそれぞれが応答して、従うようになる。

この順番で「すごい」のは、「私」ではなく、始めから最後まで神様です。「神様ってすごい。」の一言に尽きるのです。
恵みに対する反応は、「私は値しない者であったのにただで受けた。神様ありがとう。ただで受けたのだから、ただで与える者に私もなりたいです。そうならせてください。」でしょう。
このような神への従順から来る「良い行い」は、神様に栄光を帰すものとなります。行為者を誇らせるものとはならないのです。

こう考えてみると、クリスチャンは「良い子」ではありません。「良い子になりたい」と望んでいるでしょうけれど、つまるところ、「罪を赦された、愛されている子」なんですね。「良い子」にならないとクリスチャンになれないと思っていた方、どうぞご安心を!

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今日は礼拝の後に半袖になってしまうような気候でした。

和馬が見せたいのはテントウムシ。でも私が見せたいのは彼の歯抜け状況。今まで全部で5本抜けました。上の真ん中も相当ぐらぐらです。

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